中国の顔ともいえる、首都北京の旅行記(その4.明清24代の皇帝が生活し、政務を行なった「紫禁城」(Vol.3))

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中国の顔ともいえる、首都北京の旅行記(その4.明清24代の皇帝が生活し、政務を行なった「紫禁城」(Vol.3))

皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。 

 

 先週に引き続き、北京の旅行記(第4回)です。

 

 今週も紫禁城(第3回)で、皇族の宝を収めた珍宝館等がある寧寿宮区、紫禁城が見渡せる景山公園についてお伝えします。 

 


(景山公園から見た、夕暮れに浮かび上がる紫禁城。壮大な景色ですね。)

 


(紫禁城皇極殿と寧寿宮は現在珍宝館と名付けられています。珍宝館は歴代皇帝や皇族や妃の身を飾った金銀宝石などの展示を行う、博物館として公開されています。珍宝館には豪華な食器や生活用品も展示されています。珍宝館を見て回ると、豪華な金雲龍紋提爐が展示されていました。)

 


(九龍壁。九匹の龍が宝珠と戯れている様子を五彩の瑠璃板で描いた大きな照壁。この紫禁城の他、同じく北京の北海公園の九龍壁、山西省大同の九龍壁を合わせて、中国三大九龍壁と呼ばれています。)

 


(珍妃井。珍妃井の周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃されている。)

 

 

紫禁城の奥には寧寿宮区と呼ばれる、九龍壁や珍宝館があるエリアがあります。

 

紫禁城の九龍壁は中国3大九龍壁のひとつとされ、他の北京の北海公園、及び山西省の大同の九龍壁と比べ、最も大きく立派なものです。龍は皇帝を表し、九は最大の陽数で皇帝を表す数字とされています。美しい彩の瑠璃瓦で龍の彫刻を飾っている巨大な壁はかつての清王朝の隆盛を物語っているようです。

 

 

 

 

 

紫禁城皇極殿と寧寿宮は現在は珍宝館と名付けられ、歴代皇帝、皇族、及び妃の身を飾った金銀宝石等が展示されています。かつて紫禁城にはもっとたくさんの金銀財宝がありましたが、その大半が国民党によって台湾に持ち去られています。

 


(日時計です。)

 


(清の時代に乾隆帝の勅命により、新疆のミーローター山から掘り出された。 重さは100トンもあったとか。新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に、凍った道を車幅12mもの特大の運搬車で、数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて運んだとされる。乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる「大禹治水図」が色あせ、劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」の治水事業を後世に伝えるために、巨大な玉に治水の物語をそのまま刻ませた。)

 


(製作工数15万人工の大工作を、1組60名の玉匠が3組で、昼夜兼行で製作にかかり、乾隆52年(1787)、製作年月6年かけてようやく完成させた。)

 


(そそり立つ巨岩、奥深い洞穴、岩間に生える樹木の間を険しい坂道を上り、狭い足場の上に立って、鑿(のみ)や槌などの初歩的な道具で山を切り崩そうとして蟻のように働く人々が生き生きと彫り込まれていた。そそり立つ巨岩、奥深い洞穴、岩間に生える樹木の間を険しい坂道を上り、狭い足場の上に立って、鑿(のみ)や槌などの初歩的な道具で山を切り崩そうとして蟻のように働く人々が生き生きと彫り込まれていた。)

 


(ヒスイの彫刻。)

 


(ヒスイの彫刻。)

 


(水晶。)

 


(象牙。)

 

 

 


(ヒスイの花。)

 


(ヒスイの花。)

 


(ヒスイの竹。)

 


(金胎珊瑚桃式盒。中国船による密漁で、昨今何かと話題の珊瑚で作られた容器。清代の嬪妃が、宝飾品を収納するジュエリーボックスとして使用していたと思われる。容器は大きな桃型で、蓋のてっぺんには“寿”の文字と共にコウモリが彫られ、福寿を表現。)

 


(ヒスイの彫刻。)

 


(花瓶。)

 


(ヒスイの彫刻。)

 


(金嵌珍珠天球儀。清の乾隆帝の時代に内務府で作られた金の地球儀。9条の龍に支えられた天球は、星宿、星座などが、真珠で表されている。それらの位置はかなり正確で、清の天文学のレベルがかなり高度であったことが分かる。現存する黄金の地球儀はこれが唯一の物で、かなりの貴重品。)

 


(金鏨花如意。3つのパーツから成り、弧を描くような形のこの展示品の如意は、清の中期に宮中で流行したスタイル。金をベースに、ルビー、サファイア、翡翠、真珠、トルマリンといった宝石が百粒以上埋め込められている。)

 


(紫禁城皇極殿にある珍宝館を見て回ると、西洋式の物品も多く見られます。)

 


(ヒスイの彫刻。)

 


(ヒスイの飾り箱。)

 


(ヒスイの獅子。)

 


(紫禁城皇極殿にある珍宝館を見て回ると、西洋式の物品も多く見られます。金琺瑯製の見事なティーセット(金胎琺瑯象嵌西洋模様薬缶)がありました。工芸に優れた中国では清朝代に西洋式の物品も多く造られていたようです。)

 

 

 


(清王朝の王の衣服の説明図。)

 


(ヒスイの十二支。)

 


(ヒスイの白菜。)

 


(紫禁城皇極殿にある珍宝館には、多数の豪華な宝飾品が展示されています。珍宝館の展示品を見て歩いていると、清朝中期に流行した宝石で飾られた金の髪飾りが展示されていました。どの展示品も息を呑むほどの豪華、精細で素晴らしいものばかりです。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(印鑑。)

 


(ヒスイの瓶。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(豪華な宝飾品。)

 


(ヒスイの飾り。)

 


(ヒスイの飾り。)

 


(ヒスイの飾り。)

 


(真珠の指輪。)

 


(白金の飾り。)

 


(ルビーの飾り。)

 


(ヒスイの腕輪。)

 


(ヒスイの印鑑。)

 


(ヒスイの印鑑。)

 


(印鑑類。)

 


(印鑑類。)

 


(黄金の鋳物。)

 


(黄金の杯。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寧寿宮区からしばらく歩くと、「外東路」があります。ラストエンペラーの映画では溥儀が自転車に乗っているシーンが印象的な通路です。母が亡くなって泣きながらこの通路を通ります。

 

 

 


( 「ラストエンペラー」で紫禁城を去るアーモ(乳母)を追って少年の溥儀が走ったり、母の訃報を受けた日に自転車で通り過ぎた長い直線の道。)

 

 変わったところでは珍妃井があります。ここは光緒帝のお妃の珍妃が、義理の姑の西太后に嫌われ、投げ込まれて殺された井戸とされています。珍妃井の周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃され、また詩を吟じる女性の声や、すすり泣く女性の声を聞いたという証言もあるとか、、怖いですね。

 


(珍妃井。珍妃井の周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃されている。光緒26年(1900年)に義和団の乱が勃発した。義和団の乱は当初は義和団という秘密結社による排外運動であったが、西太后が「扶清滅洋」を掲げる義和団を支持して欧米列国に宣戦布告したため、国家間の戦争に発展した。しかし清朝の軍事力はすでに弱体化していた。欧米列強国軍が北京に迫ると、西太后は西安に逃走している。このときに光緒帝も北京を脱出している。光緒帝は珍妃を連れて行くように懇願したが、西太后は逃亡の足手まといになるという理由で承知しなかった。それどころか外国人から辱めを受ける前に自殺するよう珍妃に命じたのである。しかし珍妃は自殺を承諾しなかった。怒った西太后は部下に命じて珍妃を井戸に投げ込ませた。そして万が一にも助からないように井戸の上から石を投げ込ませた。1年余りのあいだ珍妃の死体は井戸の底に沈んでいた。欧米列国に多額の賠償金を支払うことで北京に戻った西太后は、珍妃の死体を引き上げて河北省・保定の崇陵妃園寝に埋葬させている。この時点で西太后は、珍妃は井戸に身を投げて自殺したとの情報を流している。珍妃が投げ込まれた紫禁城の井戸は現在でも残っている。珍妃井と呼ばれるその井戸は一般に公開されているが、使用は禁止されている。)

 


(珍妃井。周囲では清代の服を来た女性の幽霊がたびたび目撃されている。また詩を吟じる女性の声や、すすり泣く女性の声を聞いたという証言も少なくない。)

 

紫禁城北にあるのが景山公園です。頂上からは紫禁城を一望できます。紫禁城を作る際に掘られた土で出来た人造の山で高さ43mで、清代には庭園として整備され、現在も北京市民の憩いの場所となっています。東南の山麓には明のラストエンペラー崇禎帝が李自成軍に攻められ、追い詰められて首吊り自殺をした槐の木があります。

 


(景山公園北側から見た景色。奥に見えるのは「鼓楼」。元代に建てられた木造の時計台だそうです。)

 


(景山公園からは紫禁城のみならず、北京の街並みも一望できます。こちらは北海公園が見えます。)

 


(こちらは高層ビル群が見えます。)

 


(神武門の北側にあるのが景山公園です。景山公園は人造の築山で高さ43m(海抜108m)で、清代には庭園として整備されました。)

 


(景山公園の東南の山麓には明のラストエンペラー崇禎帝が李自成軍に攻められ、追い詰められて首吊り自殺をした槐の木があります。)

 


(神武門の北側にあるのが景山公園です。景山公園は人造の築山で高さ43m(海抜108m)で、清代には庭園として整備されました。)

 


(景山公園の東屋。)

 


(万春亭。もともと5つの東屋が立っており、それぞれに仏像が祀ってあった(現在は万春亭のみ)。)

 


(万春亭の仏像。)

 

 3週に亘って紫禁城についてお伝えしてまいりましたが、改めて見てみても明清時代の王朝のかつての隆盛が壮大なスケールで感じられました。来週は万里の長城をお伝えいたします。

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