三国の呉や六朝・明・中華民国などの都として栄えた南京(その5.中国で現存する最大の城門である南京の中華門)
皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。
今週も先週に続き、南京の旅行記をお伝えいたします。第5回目は中国で現存する最大の城門である南京の中華門です。
明の時代に明太祖、朱元璋は朱昇の「城壁を高く建つ」と言う助言を用いて、1366年から1386年にかけて南京の城壁を建築しました。
(レンガの欠けた部分は日本軍の砲撃によるものです。)
(レンガの欠けた部分は日本軍の砲撃によるものです。)
(レンガの欠けた部分は日本軍の砲撃によるものです。)
明朝初期は正南門で、後に聚宝門と呼ばれ、1931年に中華門と名付けられました。中華門は城門ですが、3000人の兵士を配置でき、大規模なので砦に近いのです。城門の外を取り囲んでいる三つの小城郭は四つのアーチ型の門によって貫かれています。
(レンガの欠けた部分は日本軍の砲撃によるものです。)
三つの小城郭内には兵士を隠す穴が27あり、3000人余りがその中に隠れられます。小城郭の両側にある坂から、馬に乗り城門に登れます。そんな兵士を隠す建築は古代の戦争で重要な役割を果たしています。敵が攻撃に来たときは、三つの小城郭を利用して、敵を三つに分散して殲滅できるのです。
(日本軍の砲撃で破壊されましたが、修復されています。上側の新しいレンガは修復された部分です。)
(日本軍の砲撃で破壊されましたが、修復されています。上側の新しいレンガは修復された部分です。 )
(日本軍の砲撃で破壊されましたが、修復されています。)
実はここにも日本軍の爪跡が残っています。南京での戦闘では日本軍が城壁上に登りつき、城壁上では守備の中国兵との間で猛烈な白兵戦がおこり、手榴弾が炸裂しました。反撃する中国軍を撃退し、城壁上の一角を占領して、日章旗を打ち立てたようです。今でも城壁には手榴弾の跡が残っています。1980年代以前、中華門は長年に亘って破壊されたままの状態になっていましたが、最近では修復工事が進み、元の姿に戻ってきているのです。