かつて栄華を誇った中国の古都、西安(その8. 中国4大美女の一人、楊貴妃の墓)
皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。
今週も西安の旅行記をお伝えいたします。第8回目となる今回は中国4大美女の一人、楊貴妃の墓です。
楊貴妃は唐の皇帝・玄宗に寵愛された皇妃であり、世界三大美女の一人とも称されています。その楊貴妃の墓は西安から西に約60kmの興平県の馬嵬坡にあります。楊貴妃の墓は中央にあり、「楊貴妃之墓」と書かれた標石とレンガで覆ったかまくら状になっています。
玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかるようになりました。このため、国内情勢は次第に悪化し、政治は窮境に陥りました。755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、安史の乱が起こりました。楊貴妃は玄宗皇帝と長安から脱出し、西の蜀(現在の四川)を目指しましたが、馬嵬まで行った時、禁軍は反乱を起こしました。
玄宗皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じました。楊貴妃はこの時、寺に入って仏に祈りたいと玄宗に希望し、許可を得た楊貴妃は寺に入り、仏像に面して「一日早く亡くなったら一日早く生まれ変わるようにお願い申し上げる」と祈りました。直後、楊貴妃は絞殺されました。
時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は 短くて 苦しきことのみおおかりき」という詩の通りでした。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けました。
この楊貴妃の墓ですが、昔は土盛りでした。墓の土は毎年春に白粉に代わって香を漂わせ、その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まり、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参るようになったため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまいました。そのため、墓は半球状のレンガで覆われるようになりました。
楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を献じました。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められているのです。
今週で西安の旅行記は終了いたします。