かつて栄華を誇った中国の古都、西安(その6. 玄宗皇帝は楊貴妃と共に酒と歌舞に明け暮れた興慶宮)
皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。
今週も西安の旅行記をお伝えいたします。第6回目となる今回は西安の興慶宮についてお伝えします。
興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営され、玄宗皇帝が式の政務を執っていた唐代の政治の中心地でした。また場所でもありました。宴会では玄宗皇帝と楊貴妃が牡丹の花見を行い、同席した李白が詩を詠って、それを歌手の李亀年が即興で歌ったといいます。
史書によると興慶宮にある沈香亭は楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたもので毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに咲いていたそうです。牡丹の花は百種類以上あって一日に何回も色が変わったといいます。玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。
この興慶宮公園に中には阿倍仲麻呂の記念碑もあります。これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたものです。阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来ました。彼は国子監(大学に相当)で猛勉強し、最難関とされていた進士の試験に合格し、唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就きました。彼は長安で35年間暮らしました。
仲麻呂は753年6月、玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、帰国の途につきました。その途中、鑑真を日本に誘い、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の碑とは第四船に乗船して蘇州を出発しました。渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難してしまいました。かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸しました。そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻りました。この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻りました。その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、770年、73才で亡くなりました。
興慶公園にある阿倍仲麻呂の記念碑は大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が刻まれています。当の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られています。遠い異郷で長い年月を過ごし、日本人からも唐の人々からも信頼され、素晴らしい友人を持った仲麻呂さんは、結果的には故郷に帰れなかったけれど、とても幸せだったのではないでしょうか。