中国の顔ともいえる、首都北京の旅行記(その3.明清24代の皇帝が生活し、政務を行なった「紫禁城」(Vol.2))
皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。
今週も北京旅行記(第3回目)です。先週に引き続き、紫禁城です。今週は太和殿より北のエリアの後宮である、皇帝が生活していたエリアの乾清宮等をお伝えします。
まず中和殿から。中和殿の東側にある階段を下りたところにはテニスコートがあったようです。ここは映画ラストエンペラーで、溥儀が家庭教師や皇后たちとテニスを楽しんでいたところに、突然、大勢の軍人がやってきて、「1時間以内に紫禁城から出て行くように!」と言い渡されるシーンのロケ地でした。
(中和殿の王座。儀式が行われる大和殿に入る前の皇帝控え室。)
(手前は皇帝の控え室だった中和殿、奥は科挙の試験が行われた保和殿。)
(皇帝の控え室だった中和殿。)
(階段に描かれた龍の壁画。)
(中和殿の窓の格子。龍を掘り込んでいる。5本の指の龍は皇帝だけが許された。)
中和殿の後ろには保和殿があります。保和殿は皇族・王侯・要人が参加する宴席の会場として使われ、清朝6代皇帝・乾隆帝の時代からは、科挙の最終試験の会場としても使用されました。
(科挙の試験が行われた保和殿。)
(科挙の試験が行われた保和殿の王座。この王座の前に机を置いて全国から来た約36人の受験生に直接試験を行った。)
(科挙の試験が行われた保和殿の入り口天井。)
(保和殿の防火用水。)
(保和殿から乾清門へのくだりの階段。)
午門の北、太和門から紫禁城の「公的」空間は保和殿で終わり、乾清門から奥が皇帝と皇后・側室たちの「私的」空間としての後宮となります。
(皇帝が生活する内廷へ入口である乾清門。皇帝および宮女家来しか入ることを許されなかった。)
(乾清門の防火用水。)
(乾清門アップ。明時代の皇帝の朝拝は大和門で行われたが、清時代より乾清門で行われるようになり、政務もここで行われた。)
(乾清門の横壁アップ。)
(乾清門の塗金青銅獅子像の横。玉を持っているのでオス。玉は世界を現し、世界を統治するという意味。)
(乾清門の塗金青銅獅子像の後ろ。)
(乾清門の塗金青銅獅子像の横。子供を持っているのでメス。子を産んで世界を創造するという意味。)
(乾清門アップ。明時代の皇帝の朝拝は大和門で行われたが、清時代より乾清門で行われるようになり、政務もここで行われた。)
後宮は日本のお城の大奥に当たります。中国の後宮に関しても男子禁制であり、皇后やこれに仕える宦官や側室達が生活する場でありました。1924年の馮玉祥のクーデターで、宣統帝溥儀と共に宦官2000人と女官200名が紫禁城から追われたとも言われており、いかに後宮での生活には大勢が関わっていたかがわかります。
乾清宮は康熙帝の寝室として使用されていましたが、清朝第5代皇帝・雍正帝の時代以降は、大臣との謁見や上奏文の処理など日常の執務をおこなう場所になったようです。
(乾清宮。)
(乾清宮の王座。)
養心殿は当初は康熙帝の書斎でしたが、帝位を受け継いだ雍正帝は遠慮して康熙帝が寝殿とした乾清宮をみずからの寝殿とすることをせず、こちらを書斎を兼ねた寝殿としました。こぢんまりとした書斎ですが、広大な紫禁城の主が、ほんの片隅でたいていの用事をこなしていたわけです。
(養心殿。)
(養心殿の王座。)
(養心殿。)
(養心殿の入口。)
(養心殿の玄関正面にある楽器。)
(養心殿の玄関天井。)
(養心殿の玄関正面にある楽器。)
皇后が住んだ太極殿や、西太后が若いころ住んだ翊坤宮などがあります。当時は華やかな雰囲気で満ち溢れていたあったことでしょう。
(皇后が住んだ太極殿。)
(皇后が住んだ太極殿。)
(京劇が行われた煕和軒。)
(西太后が若いころ住んだ翊坤宮。)
(西太后が若いころ住んだ翊坤宮。)
(西太后が若いころ住んだ翊坤宮。)
(紫禁城の最も北にある神武門。清代には夕暮れに108回太鼓が打ち鳴らされた。)
(順貞門。神武門のすぐ内にある。)
(紫禁城の最も北にある神武門。清代には夕暮れに108回太鼓が打ち鳴らされた。)
(紫禁城の堀。)
(紫禁城の最も北にある神武門。)
(紫禁城より見た景山公園。)
今週はここまで。清の時代の皇帝が住んだエリアを中心にお伝えしました。次週は紫禁城に残された宝物や九龍壁などをご紹介いたします。