第2の故郷、深セン(その17.わずか30年程の間に3万人ほどの漁村から1千万人超の大都市へと急速に発展した深セン)

スマイル中国語教室

第2の故郷、深セン(その17.わずか30年程の間に3万人ほどの漁村から1千万人超の大都市へと急速に発展した深セン)

皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。

 

今日は私が住んでいた深センについて紹介いたします。

 

深センはたった30年程の間に人口3万人ほどの漁村から1千万人超の大都市へと急速に発展してきました。これは1970年代に中国の最高指導者であったケ小平による功績が大きいです。

 

 

深セン画像広場のパネル写真、蓮花山公園の像、そして海上世界の直筆サインなど今でも彼の功績を称えるものを見かけることができます。

 

 

 

 

 

アメリカや日本などを視察したケ小平は、中国が大きく遅れていることを実感し、階級闘争はやめ、経済改革を進めることを決意しました。これによってケ小平が推し進めた改革開放路線により、4つの経済特区が設けられ、特区の一つとして深センが作られていったのです。

 

経済特区には、当時はイギリス領だった香港に隣接している深セン、ポルトガル領のマカオと接する珠海、多くの華僑・華人の故郷である汕頭、そして海を挟んで台湾の対面にある福建省の廈門と外国に近い4つの地域が選ばれました。

 

  この4つの経済特区のなかで、最も大きな発展を遂げたのが深センでした。経済的に発展していた香港と陸続きだったことが大きかったのです。

 

経済特区に指定されてからの深センには、仕事を求めて中国全土から人々が集まり、今では北京・上海・広州と並ぶ中国第4の都市となっています。自由経済が進み、ジョブホッピングを求め、他の都市よりも転職する人が多かったです。

 

さまざまな地方から来た人たちが集まっているため、深センは広東省にあるにもかかわらず、メインの言葉が広東語ではなく、中国の標準語である「普通話」がメインとなっています。私も住んでいた期間、親交のあった方々で地元の知り合いはおらず、みんな他の地方から来た人ばかりで、聞こえる言葉は「普通話」ばかりでした。

 

 深センの至るところで「来了就是深?人」というスローガンを見かけます。これは深センに来れば誰でも深セン人になれ、誰でも平等に発展するチャンスが与えられるというわけです。みんな違う所から来ているので排他的な感じはなかったです。

 

 

そのような急速に発展してきた近代都市ですから、住む上での買い物やブランド品のショッピングをすることは充実していますが、これまでの深センについて書いてきたブログにありますように歴史的なものや観光地が極端に少ないのです。そのためか、遊園地の歓楽谷や中華文明を紹介する中華民族村など人を集める大きな観光地が急ピッチでとってつけられたようにつくられている感じです。

 

私が深センから離れて数年になります。地下鉄も発展し、私が住んでいた頃よりも更に変わってきていると思われ、今はどうなってるのか気になってます。

トップへ戻る