中華文明の源となった河南省の古都、洛陽の旅行記(その3.断崖絶壁の残る北魏時代の石窟寺院、鞏県石窟寺)

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中華文明の源となった河南省の古都、洛陽の旅行記(その3.断崖絶壁の残る北魏時代の石窟寺院、鞏県石窟寺)


(鞏県石窟寺。北魏時代の格調高い石窟が数多く残っています。)

 

こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。

 

今週も洛陽の石窟編、先週の龍門石窟に続き、鞏県石窟寺の石窟を紹介します。龍門石窟に比べ、かなり小規模ですが、格調高く、むしろこちらの方が圧倒されました。

 

(鞏県石窟寺)

 

北魂の考文帝によって洛陽遷都後に建立され、「希玄寺」と号したが、清代から「石窟寺」と呼ばれるようになったという。北魂石窟の一つで、石窟五ヶ所、県崖に彫刻した大仏三つ、小さい仏像千点程と彫像276点、石刻7759点が保存されている。

 

(旅行記)

 

鞏県石窟寺は観光客もほとんど足をのばしておらず、土産店もないような穴場のスポットみたいです。当日の観光客は私だけで後はお寺の管理人さんや地元の住人のみ。閑散としていました。

 

石窟は5窟あって、第5窟以外は、方形の中心に柱型部分を残し、壁面と柱型面に仏龕が彫られていました。

 

龍門石窟と同様に文化大革命や外国の持ち出し等によって首がない仏像も多く、また龍門石窟と比べて石の質が脆いらしく、崩れている仏像が多いのは残念ですが、彫刻のレベルは格調高く、決して見劣りしないものでした。黒く見えるのは石炭のススによるものでこの辺りはまだまだ石炭による暖房を使っているようですね。

 

鞏県石窟寺は龍門石窟から東に 40km あまりに位置する鞏県市にあります。鞏県市中心部から北東方向に、伊洛河(龍門石窟が面する伊河と、洛陽市街地の南側を流れる洛河が合流した河川)が黄河に合流する地点となります。鞏県石窟寺は、この黄河と伊洛河に挟まれたエリアに建立され、近くには大力山山裾、砂岩の断崖の下にあるお寺であり、まさに黄河文明発祥地にあります。

 

河南省は黄河の中華文明の発祥地ですが、農村部で交通の便が悪く、メジャーにはなっていませんが、まだまだこのような余り知られていない歴史の穴場スポットが数多く残っているようです。時間があれば、他にも探検してみたいですね。

 

次週も洛陽の旅行記です。よろしくお願いします。

 

(次週に続く)

 


大力山の絶壁の下に石窟はあります。

 


石窟寺院建立の前は元はこんな崖だったんでしょうね。

 


石窟を守るように屋根があります。石質が脆いらしく、かなり崩れてます。

 


石窟内だけでなく、外壁にも数多くの彫刻が掘られています。

 


第3窟中心柱南面帷帳龕。

 


壁面には千仏龕が掘られています。ひとつひとつは丁寧に掘られています。

 


仏龕の上は煤で真っ黒。この地域ではまだまだ石炭の暖炉が使われているようです。

 


石窟の入り口には鉄格子が設置されてます。管理が厳しく、実は撮影禁止です。.

 


東西北の壁面には千仏龕が掘られています。ただし保存状態があまり良くないため、現在は千体は無いそうです。

 


礼仏図が描かれています。

 


第1窟外壁摩岩大仏像。

 


北魏時代の漢字が見えます。

 


こちらにも漢字が!象形文字に近いですね。

 


第1窟中心柱南面帷蝶帳龕。

 


迫力ある仏像。残念ながら崩れてます。

 


こちらは千仏龕。999体の小さな仏龕とやや大きめの優填王像で、併せて千体になっています。

 


第一窟の西側の漢洞へ続く門。お宝への入り口みたいです。

 


漢洞の説明文。

 


東漢代の摩崖石刻。中央上部には七言詩が、右上に朱雀、その左斜め下に五頭鳥の線刻画があります。その他、三匹の魚も描かれているそうです。

 


大力山の麓にある鞏県石窟寺。地元の人らしい人や管理されている方くらいしかおらず、閑散としてました。しかし石窟のレベルは高かったです。

 


顔が持ち出された仏像。全身見たかったです。

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