大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」と中国語の形成の謎
皆様、こんにちは?? スマイル中国語教室のマーシーです。
今日は先日、世界文化遺産に登録される見通しとなった日本最大の前方後円墳、仁徳天皇陵古墳を含む、大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」について。
古墳時代の1,500年前は大阪湾の海岸線が古墳群のすぐ近くまで来ていたそうです。そして古墳群のあった辺りは海を渡って中国や朝鮮等の大陸からやってきた人達が瀬戸内海を通り、最初に到着した場所であったようです。そこから現在の奈良や京都等の目的地へ移動していました。
現在は木々で覆われてしまっている古墳ですが、築造当時は墳丘斜面に石が敷き詰められ、周囲には多くの埴輪が並べられていました。 つまり大陸からきた使節団へ巨大な墳丘の石が光輝く光景を見せることで、日本の国の力を知らしめる役目も担っていたと言われています。
現在近くを歩くと小高い山や谷にしか見えませんが、当時の使節団になったつもりで古墳群を歩くと歴史を感じられますね。
(古墳群を歩いて見学した後の草団子とお茶!)
話は飛んでしまいますが、ここからは私が感じたことです。違う!という方は無視してください^ ^。私は関西の出身ではないのですが、中国から帰国し、関西で働き始めた頃、街で歩いていて中国語が遠くから聞こえる!と思ったら実は関西弁だったことが何度もありました。関西弁は大きな声で、大きな抑揚をつけて喋るので、中国語と似ている感じがしたのです。
また語尾に中国にも関西弁にも"や"が付くことがあるのも似てる感じがします。更に断定ではないのですが、日本の御先祖様は西日本と東日本で異なり、関西の方の遺伝子のルーツは中国南部から来たものが多いことも発音のリズムが似ている原因なのかもしれませんね。
昔から大陸からの使節団も多く、中国との交流も多かったことで、関西弁が形成されていく過程で中国語に影響されたものでは?と推測しています。勝手な妄想で失礼いたしました。
(仁徳天皇陵前は広い公園が多く、市民の憩いの場となっています。昔ながらの紙芝居もしていました。)