三国の呉や六朝・明・中華民国などの都として栄えた南京(その6.蒋介石夫人の宋美齢が暮らした美齢宮)
皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。
今週も先週に引き続き、南京の旅行記をお伝えいたします。第6回目となる今週は蒋介石夫人の宋美齢が暮らした美齢宮です。
彼女は資産家であった宋家の三姉妹の末っ子でした。中国の歴史上、あるいは世界の歴史上でも、これほど華麗で波乱に富んだ生涯を送った姉妹はそういないでしょう。金を愛したのが財閥の子息と結婚した長女の宋靄齢、中国を愛したのが孫文の夫人である宋慶齢、そして権力を愛したのが蒋介石と結婚した宋美齢とも言われています。
3姉妹の父親の宋耀如は、アメリカに渡り、キリスト教の洗礼を受け、聖書の出版で成功を収めます。やがて中国に戻った宋耀如には三人の姉妹のほかに三人の兄弟もおり、子どもたちすべてをアメリカに留学させます。三姉妹はジョージア州のウエスレイアン大学に学びます。
三姉妹はやがて政治の道に引き込まれていくことになります。それは父親の宋耀如が孫文を支援していたためです。
長女の宋靄齢は、アメリカ留学から帰国後、孫文の秘書を務めた後、結婚のため、その職を次女の宋慶齢にバトンタッチし、自身は孔子の末裔を名乗る財閥の御曹司、孔祥煕と横浜で結婚しました。孔祥煕はのちに国民党南京政府の財政部長に就任します。
姉から孫文の秘書をバトンタッチされた次女の慶齢は、東京に亡命中の孫文と結婚します。慶齢22歳、孫文49歳。孫文は中国に婦人がいましたから、亡命先での不倫でした。
三女の宋美齢は姉の慶齢とともにアメリカに渡り、10年の留学後、帰国。1927年、蒋介石にくどかれ結婚します。宋家とつながりをもちたい蒋介石の、政略的な結婚だったようです。
やがて3人は、それぞれの立場で振る舞うことになり、長女は財政部長の妻として。次女は孫文の妻としてだけでなく、モスクワ寄りの国民党左派として。三女は反共の国民党右派の首領の妻として。
孫文は1912年に中華民国の臨時大総統に就任していましたが、袁世凱との戦いに敗れ日本へ亡命します。ところが、第一次世界大戦の最中、日本は中国に対し「二十一箇条の要求」を突きつけます。日本に頼ろうとしていた孫文は、中国を対等の国家として扱ってくれるロシアの支援を期待するようになります。
やがて1924年に国民党は国共合作の方針を決めます。しかし孫文はまもなく病気で命を落とすことになります。孫文と慶齢の結婚生活は10年にも満たず終焉しますが、慶齢はその後亡くなるまで、孫文の妻として捉えられることになります。
慶齢は国民党左派として、中国の左傾化の促進にむけて活動します。やがて共産党が実権を執ると慶齢は中央人民政府の副主席となり、1949年10月1日、天安門上に毛沢東と並んで宋慶齢は立ちます。
現在、慶齢は、上海郊外の万国墓地に両親とともに眠っています。文革中には「国民党総裁蒋介石の義理の姉」という理由で迫害も受けましたが、晩年には共産党から国家名誉主席の地位を与えられました。
一方で美齢は得意の英語を活かして、ファーストレディとして外交にたちまわり、米国の蒋介石支援を支えていったため、大陸から「人民の敵」とされました。台湾で「大陸反抗」の機会を望みましたが、台湾も本省人の李登輝が総統になるなど情勢は変化し、台湾人の台湾になってきたため、美齢は1991年ニューヨークへ移住し、台湾には帰りませんでした。
激動の中国現代史の渦中に身をおき、流されることなく自身の理想を貫いた3姉妹。歴史の教科書に紙幅を割かれることは少ないが、今世紀の中国を代表する存在なのです。