三国の呉や六朝・明・中華民国などの都として栄えた南京(その1.中国の国父と呼ばれる孫文の陵墓、中山陵)

スマイル中国語教室

三国の呉や六朝・明・中華民国などの都として栄えた南京(その1.中国の国父と呼ばれる孫文の陵墓、中山陵)

皆様、こんにちは!スマイル中国語教室のマーシーです。

 

 今週より数週に亘って南京の旅行記をお伝えいたします。

 

 南京と聞くと日本人にとって、どこか気後れする場所であると思います。今回行ってもよいものか迷いましたが、日本人が歴史に足跡を刻んだ場所のひとつを肌で感じてみたいと考え、行くことにしました。

 

 第1回目となる今回は中国の国父と呼ばれる孫文の陵墓、中山陵です。

 

 

 

 

 

 

 

 日本では孫文の名前として知られていますが、中国本土では本人が好んだ「孫中山」という名前のほうが認知度が高いです。

 

 

 

 

 

 中山陵は辛亥革命により中華民国を建国し、中華民国の初代臨時大統領だった孫文の広大な陵墓です。この中山陵は見晴らしのよい紫金山の小高いところにあり、南京市を代表するスポットのひとつとなっています。中山陵は丘の中腹に造営され、複数の建築物が南北に一直線上に並んでおり、墓室全体は「警鐘」の形をしています。

 

 

 

 

 孫文は、中華人民共和国と台湾(中華民国)の両方から尊敬されている数少ない人物です。1925年3月12日に北京で亡くなり、孫文の遺言により、本人の遺体を臨時政府発祥の地である南京に埋葬するため、1926年〜1929年に広大な中山陵が造られました。今でも中国各地から孫文を慕い、中山陵を訪れています。

 

 

 

 

 

 

 中国ではずっと、たった一人の人間(皇帝)に天下の全てが隷属する時代が続いてきました。孫文はそんな時代を終わらせ、天下を等しくすべての民のものとする新たな時代を築こうとしました。だからその意志を示すこの言葉として「天下為公」を掲げているのです。 

 

 

 

 

 

 全て花崗岩とコンクリート等を使っています。墓道の階段は392段あり、これは当時の中国の人口3億9千200万人にちなんだものです。ここを登りきると祭堂があり、祭堂の奥に墓室があります。 

 

 

 

 

 

 そのような偉大な孫文の陵墓ですが、残念ながらここでも日本軍の爪跡を見ることができます。日中戦争の南京戦では南京へ向けての15マイルにわたる農村地区のほとんどの建物に火がつけられ、焼き払われました。中山陵園内の兵舎・邸宅・近代化学戦学校・農業研究実験室・警察学校などの施設が灰に帰したそうです。中山陵の途中の鋳造物にも日本軍の爆撃の爪跡が今でも残っています。

 

 

 

 

 

 次回は中華民国時代の総督府についてお伝え致します。

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